すずしろ苑の聖護院ひじり様に頂きました!
可愛いなって思うのも、いいなって思うのも女の子で。ユーリはだから、何も疑わなかった。
いずれ、きっと。まぁそんな美人なんて贅沢は望まないけど、ちょっと可愛い女の子と恋愛して。そして自分の父親と母親がそうであるようにどこかの誰かと家族を作れたらいいと。意識するでもなくそうぼんやりと考えていた。
そんなだから、ヴォルフラムとの婚約だって、文化の相違からくる行き違いでしかなくて、そのうちちゃんと取り消さないとという懸案事項に過ぎなくて。
いくら良い奴で、天使と見紛う美貌で迫られても親友としか思えないのは、ヴォルフラムが男で、ユーリも男だからだと思っていた。
それでいけばコンラートもすごくいい奴で、ヴォルフラムとは何も違わなかったはずなのだ。
コンラートは自分のことを言いたがらないので周囲から入ってくる噂が主になるのだが、それは生ける伝説のようなものばかりだった。例えばルッテンベルクの獅子だとか夜の帝王だとか。それが眉唾に聞こえないのは、やっぱり納得させるだけのものを彼が持っているからなのだろう。
そんな尊敬とも憧憬ともつかないものが、いつからそれだけじゃなくなったのかはわからない。
はっきり自覚したのはあの夜だ。まだ春先の、だけど明日から雨になるとかいうやけに暖かな晩。
外を伺った時のカーテンの隙間、真っ暗な窓が鏡のようになっていた。ちょうどユーリの背後に立って風呂上がりの髪を乾かしてくれていたコンラートの姿が映り込んでいた。
肩が揺れなかったのは幸いだった。ユーリはまるで雷に打たれたような衝撃を感じていた。
見慣れた護衛の男が、全く知らないような顔でそこに居たから。
口元は少し微笑む形になっているのに優しいのと怖いのが混じったような目で、凄く格好いいんだか凄く怖いんだか。とにかく凄い、という感想しか湧かない。
頭の芯の、多分、本能に近い部分が警鐘を鳴らす。それはざわざわとユーリの体内を駆け巡る。
そしてコンラートの視線の先にいるのが自分だということに気付く。今、タオル越しに感じる指が彼のものなのだと思えば、かっと頭に血が上った。
後ろに聞こえるんじゃないかと心配になるくらい、うるさく心臓が脈を打つ。
男の自分が男に恋するなんて思いもよらなかった事態に陥って、だけどユーリはそれでコンラートに何かを伝えるつもりはなかった。ずっとおれ達男同士だろ?と彼の弟を拒んできた手前もあったし、ユーリ自身どうなるものとも思っていなかったせいだ。
わざわざそんなユーリの感情のひとつを伝える必要もない。何しろ既にコンラートの一番大切はユーリなのだから。
夏の始まりを祝う宴が開かれた夜だった。日付が変わる頃になって、あくびを噛み殺しているのを見咎めた宰相から退出のお許しが出た。
どこかざわついた城内をコンラートと歩む。いつもより多い燈火と漏れ聞こえてくる管楽の音が華やかに淋しい。
コンラートは例の海軍士官みたいな白の礼装で、今夜も色男ぶりを如何なく発揮していた。宴席で女性から向けられる視線はどれもユーリを微妙に外していて、後ろに立つ護衛にたどり着くのだ。
美しく着飾った女性達から相手にされないことよりも、屈託なくコンラートに秋波を送るのが妬ましい自分に気が付けば、ユーリはうんざりと天井を仰ぐことしかできなかった。
「ほんとあんたってモテモテだよねー」
多分、ひがんでいるだけのように言えたと思う。
「そんなんじゃないでしょう」
コンラートは普通に返したから。
「またまたぁ」
ためらう様子に振り返れば、視線を受けてコンラートが口を開いた。
「ならばあなたの方が耳目を集める――魔王ってだけでなくね」
「それはおれじゃなくて後ろのあんたを見つめてんだよ」
間違いを正したらコンラートは納得してない顔をしていたが、そこで城の一番奥にあるユーリの部屋まで辿りついた。
盛装のマントの留め具を外すと、後ろに回ったコンラートが皺を作らないよう整えて椅子の背に掛ける。
季節に合わせた薄物でも、なくなれば肌寒さを覚えた。
ユーリを送り届ければコンラートの用は済んでしまう。これからまた華やかなあの場に戻るんだろうか。
「おれ、あんたのこと好きだ」
引き留めたい、という気持ちだけで出た言葉だった気がする。
コンラートがひどくゆっくり顔をあげる。それでユーリは自分の失敗を悟った。
口にするべきではなかった。うかつに零すことではなかった。たとえ心から思っていることだとしてもだ。
取り消さないと。すり替えないと。モテモテなのに余裕を崩さないところとか、憧れちゃうよねー。笑ってそう茶化せばいい。コンラートの硬い表情がユーリの過ちを教えているのに。
喉の奥が詰まったようになって、息をするのも苦しい。
「ありがとうございます」
拒絶でしかない謝辞をどこか他人事のように聞いていた。黙って頷くことが精いっぱいだった。
みじめったらしく歪む顔を見られたくてなくて背中を向けた。笑って冗談にすることも、泣き喚いて懇願することも出来ずにいる自分にがっかりする。
「おやすみ」
喘ぐようにそれだけ告げれば、おやすみなさい、とこちらはそっけないくらいいつもの挨拶が返ってきた。
激しく後悔した。もとから自分は何の変化も望んでいなかった。なんとはなしの苛立ちと心細さに、つい甘えが出てしまった。コンラートは四六時中ユーリのことを考え、大切にしてくれる。なのにそれ以上、何を望むと言うのだ。
時間が戻せたら、と思った。そしたら絶対あのようなこと、口にしないのに。
ほぞを噛んで、気が付いた。いや、何も変わってはいないと。ユーリが口を滑らせた告白は、なかったことにして受け流された。
何もなかったのだ。明日になればコンラートはいつものように起床を促しにやってくる。いつものように護衛について、いつものようにお茶を入れてくれるだろう。
告白もなければ失恋もない。嘆き悲しむ必要もない。
幸い初夏の夜は短い。すぐにまたコンラートがやってきて、朝のランニングに連れ出してくれるはずだ。
その暗殺未遂は秋も深まった頃にあった。南方の交易港を視察に訪れた際のことだ。国外に繋がる玄関口として栄える街は、国王の行幸ということもあって、いつもに増して賑わっていた。後の調査で判明したことだが、機密扱いだったユーリ行程が盗み出され、双黒の王を一目見ようと集まる市民を扇動していたらしい。その混乱に乗じてユーリが暴漢に襲われるという事件がおきた。
ユーリには見えていた。白刃が迫るのが。
避けられると判断も出来た。そしてコンマ何秒かの時間でユーリは避けない場合を考えたのだ。コンラートなら必ず自分を守ってくれる。なぜなら彼はユーリのことが何よりも大切なのだから。
それは、ぞくぞくするほど甘美な考えだった。コンラートなら、自分の身を呈したってユーリを守る。
だけどべつに彼を傷つけたいわけじゃないから、ユーリはワイルドピッチの球に飛びつくみたいに横へ飛んだ。勢いよく突っ込んでくる暴漢がぶつかったが、凶器は宙を切る。
たたらを踏んだところにコンラートが当身を食らわせた。怯んだ隙に反対側から駆け寄った衛兵が得物の腕をねじりあげた。
そして怒号の中、ユーリはいつもより乱暴なしぐさでコンラートに腕を取られ、その場を後にした。
襲われた緊張感に高ぶっているだけではない目が、ユーリを睨み付けた。
「笑いましたよね」
そんなつもりはなかった。そんな暇もなかったはずだ。
「そんなわけないだろ」
ぜんぜん信じてない顔が苦々しげに歪む。
結局、コンラートはユーリのことをよく見ている。あの一瞬の躊躇いの訳だって、かなり正確に把握しているんだろう。
コンラートが息を吐いた。
「消毒をしましょう」
横っ飛びに避けた時作った擦り傷を指摘されて、これ以上の追及はないと知る。
見逃がしてもらったのではなく逃げられたのだと気が付いたのは、大げさに思える包帯を巻かれた後だった。
気がつけばユーリの専属護衛は、コンラートからヴォルフラムに代わっていた。
演習だ特務だとコンラートが護衛の任を外れることが少しずつ多くなり、今は一日の大半をヴォルフラムが担っている。
週に三回もコンラートが外れることがあった時に尋ねればよかったのだが、たまたま重なっただけかと思えば、問い質すのは躊躇われた。
コンラートでなければ嫌だとはっきり口にするには、ユーリには屈託がありすぎたし、言葉にせずとも察しろというのは、知らぬふりを通すつもりらしいコンラート相手には望むべくもないことだった。
本当にただ多忙なだけなのか、それとも避けられているのか。くたびれ果てるまで考え続け。結局ヴォルフラムが付くことの方が多くなった頃、やっと避けれれているという事実を受け入れられるようになったのだ。
それにコンラートに異を唱えて、これ以上突き放されることも恐ろしかった。今はまだ、早朝のランニングになら付き合ってくれるから。
「コンラートにお前との結婚話を進めるよう言われた」
ヴォルフラムがユーリの護衛を引き受けるようになる以前から、彼は婚約者の特権と称してユーリの寝室に押しかけていたので、昼間も付くようになれば、ほぼ二十四時間一緒にいる状態になる。この時も既に灯りを絞った寝台の中で、ユーリは眠りに落ちる途中だった。
背中越しのヴォルフラムの気配に意識を向ける。振り返らなかったのは、顔を合わせるのが怖かったからだ。
ユーリには自分はコンラートのことが好きなのだと自覚してからわかったことがあった。ずっとそれまでヴォルフラムのユーリへの執着を意地だとかプライドといったものだと思っていたのだが、ヴォルフラムの中にはちゃんと、ユーリがコンラートに抱くのと同じ恋情があったということだ。
自分が同じ立場に置かれるまで気が付かないというのが申し訳ないところなのだが、理解してからも見ないふりを続ける自分はさらに罪深いと思う。
自分はコンラートと同じことをしている。そう思えば、コンラートを恨むこともはばかられた。
それでも軽い絶望が頭を痺れさせる。
「ユーリがいくら想ったところであの腰抜けにそんな気概はないんだ。不毛な関係にいつまでも固執するのは時間の無駄だぞ」
酸素の回らない脳がぼんやり認識していたのは、コンラートとの経緯をヴォルフラムが知っていたということだ。
実際はユーリは何も起こせなくて、コンラートも起こさせなかった。ユーリの告白じみたあれもなかったことにされて、本当に何も残らなかったのに。ヴォルフラムはどう理解しているんだろう? そう思ったら可笑しくてならない。
「おれはコンラッドが好きだ」
上掛けをぎゅっと握りしめてそんなことを言ったのは、今更ながらこの気持ちの存在の希薄さに耐えられなくなってだ。
もうコンラートに告げることはないだろうし、ましてや他の誰に言うことでもない。ヴォルフラムに聞かせるのは一番違うともわかっていたけれど。
「かまわない。僕はユーリがあいつのことを好きなままでかまわない」
繊細な王子様然とした見かけを裏切るこの懐の深さに、つい甘えてしまう。こんなにもいい奴なのに、結局不誠実な態度しか取れないことにかぶりを振れば。
「もし僕に申し訳ないとでも思っているんだったら、それはただの欺瞞だぞ。結局僕をだしにして、自分の我を通したいだけだろう」
思ってもみなかったきつい思わず振り返る。小さな灯りの下で綺麗なガラス細工みたいに光る瞳が、すべてを見通すかのようにユーリに当てられていた。
だが言われてみれば、確かにそうなのだ。ヴォルフラムの為と思いながら、その実ははコンラートじゃないからだ。
「本当に僕に悪いと思うなら、僕のものになれ」
きっぱり告げるヴォルフラムは、本当にいい男だと思う。
手が伸びて、ユーリの髪を撫でつけた。手つきの優しさに涙腺が緩みそうになって目を閉じた。
「おまえが誰を想っていてもいい。無理に僕を愛さなくてもいい。いずれ必ず、僕のことを愛するようにさせるから」
ヴォルフラムは何度も何度も繰り返し、飽きもせずに髪を撫でる。
――ああ。この手が、コンラッドのものであれば良かったのに。
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