「なあ、あれ見てみようぜ」
黒髪と少しでも顔を隠すために深くかぶった布から、表情が垣間見えた。好奇心に輝く黒曜石の瞳と満面の笑みは、この世のすべてを照らし出してしまいそうだ。どうやら市場に並んだ見慣れぬものに、興味をそそられて仕方がないらしい。
「へい……坊ちゃん、あまり離れないでくださいね」
暑いこの季節にも、城下の人々が明るく仕事をしているのがわかる。人混みに揉まれながら、決して離れないように繋いだ手に力を込めた。気になるものには誘われるかの如く近寄っていくから、少しだけ心配ではあるけれど、何よりも代え難い魅力でもあった。
雑踏をものともせず隙間を縫って、目的の場所へと辿り着いてしまう。風に煽られて外れそうになったフードを手で押さえながら、見ようとしていたものを覗き込んだ。
「どれですか?」
布が柔らかに頬を擽るがそのままにして、示すものを目で探す。低い机に無造作に並べられているのは民芸品の類で、木で出来た玩具や硝子細工の置物など様々だ。硝子細工のほうは一見しただけでも欠けていたり傷があるから、恐らく貴族相手には売り物にならなくなったものを出回らせているのだろう。
そのうちの一つを手に取り物珍しさに目を輝かせる姿は、愛らしいことこの上なく笑みが漏れてしまう。眺めている木製の人形を、そっと抜き取った。
「これ欲しいんですか?」
言いながら一通り妙なものがついていないか確認すると、金を払おうとしたが慌てたユーリが首を横に振る。
「違う、違うって! おれじゃなくて、グレタが喜びそうだなって見てただけだから!」
確かによく見れば女児向けの人形で、彼にとっての愛娘への贈り物には丁度良い代物だ。
「それにしばらくグレタは帰ってこれないだろ? だからお土産はまた今度買うことにするよ」
「そうですか?」
「うん。―――ごめんな、冷やかすみたいになっちゃって」
店主に人形を返すと店から少し離れ、大通りから逸れたところでユーリは足を止めた。
「あー、小腹が減ってきたかも。おやつになるものとか売ってないかな?」
「軽食でよければこの先にいつも露店が出ていますよ。味は庶民的だけど。どんなものが食べたいですか?」
「うーん、片手で食べられるようなのがいいな。フランクフルトとかアメリカンドッグとか…あるかな?」
「もちろん。それを買ったら少し休憩しましょうか。今日は暑いから、フードを取れる場所に案内しますよ」
「まじ? やった! もう暑くて、今すぐにでも取っちゃいたいくらいだ。っていっても、眞魔国は日本よりずっと涼しいけどな」
「水分補給と休憩はこまめに取ってくださいね」
「わかってるって。なあ、早く食い物買おう」
フードに気を遣っていることと身長差のせいもあり、上目遣いになっているのに頬が緩んでしまう。歩き出してすぐに、一帯に食べ物を扱う的屋がちらほらと目に入った。主食になるものや、地球で見かけたアイスクリームやマフィンのような甘いお菓子もある。
待ちきれないとでも言いたげに足はうずうずと今にも走り出しそうだ。視線は既に何を食べようかと選び始め、追い打ちとばかりに何かの生地が焼けた匂いがするから空腹感が増すのだろう。
主の腹を満たすため、その先へと足を進めた。
***
「さあ、ここですよ」
軽食を購入したあと、広めの草原に移動した。そこは大人にあまり知られていなくて、子供の遊び場になることのほうが多い。太い幹に緑色の葉が枝いっぱいにつき、木陰が作られたところに主は嬉しそうに座ってしまう。汚れてしまわないようにと布を敷く必要はないようだ。
「おおー、涼しーっ。日陰ってだけでこんなに違うものなんだな」
被っていたフードを外すのを手伝いながら、目を細めて風を感じるユーリを見つめた。雑草が青々と茂る緑野は、植わっている大木の陰に隠れてしまえば人目につかなくなる。
手を伸ばしてきた彼に買ったものを渡した。
「サンキュ。なあ、あんたも立ってないで此処座れば?」
「ええ、じゃあお言葉に甘えて」
叩いて示された隣に腰をおろし、幹に凭れる。爽やかな風にそよいだ木の葉の陰が、少年王の顔に映って時折動いた。真っ青な空に白い雲のコントラストが美しく、彼に似合いの背景だ。
「眺めもいいし、よくこんなところ知ってたな」
「子供たちに聞いたんですよ。気に入ってくれたのなら良かった」
「うん。すっげー気に入った。草刈って、ここで野球したいくらいだ」
「今日は何も持ってきていませんし、それはまた今度ね」
わかってるって、と笑った彼が手に持ったものにかぶりついた。タコスやサンドウィッチに似たもので、肉や野菜が包まれている。
「如何ですか?」
「美味しいよ。あ、そうだ」
「どうかしましたか」
「あのさ、さっきのことなんだけど」
口に合ったようで安心するが、何かを言いたげな瞳に少しだけ緊張した。街を見ていて何か気に障るところでもあったのだろうか。
「あんまり何でもかんでもおれに買い与えたりとか、しなくていいからさ。ほら、ちゃんと小遣いの範囲で買えるし」
傷付けぬよう言葉を選び、食べ終えた包み紙をくしゃりと握る。戸惑いながら告げられたのは、己の行動についてだった。口唇のはしについたソースを拭ってやり、覗き込んで真意を探る。
「嫌でしたか?」
こんな言い方をして優しいユーリが頷けるはずもないことを、わかっていて実行するのは卑怯だと自覚している。だが否定の言葉ですらその口から零されたものならば、全てを受け入れたい。彼の手を包み込むと、詰まっていた言葉が吐き出される。
「嫌じゃない。嫌じゃないけど、そういう言い方は意地が悪いぞ、コンラッド」
「すみません」
胡乱な目を向けられて素直に謝ると嘆息される。離さないままで、だけど、と反論すれば僅かに逸れた視線がまた此方を向いた。
「恋人が欲しいものをプレゼントしたいと思うのは、おかしいですか?」
「う……」
恋人という単語に目尻に赤みが差す。
言外に俺の気持ちは迷惑ですかと尋ねているようなものだと、理解している。それでも彼の言葉で全て聞かせて欲しいから。
しばしの沈黙のあとごくりと息を飲んで、まっすぐに見つめられる。何かを伝えなければいけないとき、逸らすことなく相手と目を合わせられるのは長所だ。
「嫌だとかおかしいとか、そういうんじゃない。あんたが物で釣るようなやつじゃないってのもわかってるけど、自分で買える範囲のものは自分で買いたいんだ。お金の数え方だってまだまだ完璧じゃないくらいだし、少しでも慣れておきたいんだよ」
懇願するような眼差しを向けられてしまえば、No.と言えるわけがない。こんな仕草さえ天然でやっているのかと思うと、自覚したころにはその美貌で落とされた者は数え切れなくなっていそうだ。
「わかりました」
あからさまに安堵されて寂しくもなるが、困らせたいわけではないから気付かない振りをして立ち上がる。
「そろそろ日も傾いてきましたし、城へ帰りましょうか」
「なんで? まだ全然明るいじゃん」
まだ外にいたいと意義を唱えられる。二人きりの時間を望んでくれているのかと嬉しくなるが、後のことを考えれば首を横に振るしかなかった。
「これ以上遅くなると、ギュンターの抱擁もより過剰になっちゃいますよ?」
「……それは嫌かも」
手を差し出すと自らのそれを添えて立ち上がり、草原を見渡す。何処までも続くような緑と、西に傾こうとしている太陽。今はお忍びのために衣服は庶民的だが、隠していない漆黒の髪がなびく。
夏の日差しは強いけれど、空気は乾いているから心地よいのだろう。目を眇めて蒼を見上げると、横顔しか見えなくなってしまった。
深呼吸をして自然の匂いを嗅いでいるひとの身体を、腕に閉じこめる。
「なに?」
「…いいえ」
「行くんだろ?」
「はい」
矛盾しているとわかっていながら黒髪に顔を埋め、一瞬だけ目を閉じて、彼の身体を解放した。
「その前に、これをかぶってください」
「そうだった」
照れくさそうにフードをかぶると、黒髪が見えなくなってしまう。
頭を覆う布に触れ、他の誰の気配もないことを確認すると目尻にキスをする。瞬間、ざあ、と一際強い風が吹き抜けた。草が波立ち、去っていく。
「……っ」
口付けたのは一瞬でも、彼の顔は夕焼け色に染まったまま。耳まで赤らめて固まっている。それ以上のことをしていても変わらぬ反応をくれる恋人が、ひたすらに愛おしい。
「……ユーリ」
自らがつけた名を呼べば、硬直が解けた名付け子が眉を釣り上げた。
「コンラッド、あんたなあ……!」
「続きはまたあとで、ね」
片目を瞑って笑えば、照れ隠しのつもりか足早に進んでしまう。後ろ姿を見つめながら、じわりと幸せを噛みしめた。
風は止んで、雲の流れも元に戻る。あと一時間もすれば青空は燃えるような色にかわり、そしてまた夜が訪れるのだろう。
明日も明後日もその先も、今日のような日々が続けばいいのにと。
そんなことを思いながら、先を行く主を追いかけた。